八月八日 末広がりっぽいおめでたい日、渋谷ハチ公前広場で2曲唄う。
マスクをすることに疑問を持つ人たちのフェス、小規模ではあったけどこの場所で唄えることは滅多にないから興奮のあまり奇声を発するくらいテンションマックスでした。
コロナが危険なウィルスであればこのフェスの参加者(自分含め)は迷惑な馬鹿どもで、コロナが弱毒性のただの風邪であればフェスの外側を歩いている人たちは呼吸を制限された奴隷同然。
人それぞれの意思をマスクオン/オフで二分している光景を見ながらA mi maneraなどを熱唱。
ウィルスのサイズや感染の仕方、マスクの繊維サイズや装着時の横や上のガラ空き感をイメージでちょっとだけ拡大したら、マスクオン/オフによる分断方法がぷっと吹き出すくらい滑稽に見えるが、それはさておき。
それぞれの人はそれぞれの人生を送り今に至っているから意思もそれぞれ固有のものがあるのだが、明確に二分された。
二分は議論するのに単純なだけで最適な解を得られることなどほぼない。議論において結論が出ずらい設定なのだ。例えば二分探索法は何段も二分していくことでデータ量に対して高速に探索できるのがメリットなだけで、解を見つけるためには別のアルゴリズムも当然必要になってくる。
一回二つに分けて、、それで?ということである。まぁ2つに分けてお前はどっちだ?という特に解を得るためじゃなく、逆に解から遠ざけたい人が設定していると見た方が良い。

マスクによって二分された人類は同じ入力を与えられる。それは「恐怖」という入力である。
マスクオン派はウィルスの毒性からの恐怖、または周りの目による群でいられない恐怖。マスクオフ派は何かにコントロールされることへの恐怖。
敵を見誤ってはいけない。くどいがマスクは解でもなんでもなく二分するための線なのだ。人はなぜが線が引かれると自分のいる方に所属意識を持ってしまう。
科学は人類の敵を明確にするために生まれ、進歩したはずである。社会全体が恐怖に陥らないために。なぜなら社会が恐怖によって簡単に壊れることをたくさん経験したから。
さて、恐怖に晒された人類の多くはある状態に陥る。その状態とは「自分勝手」である。

昨日、とあるオンラインセミナーで面白い話を聞いた。
「自分勝手じゃない定義」
“自分のことを自分勝手な人間だと思う人〜” と質問を受けて手をあげたのだけど、”自分勝手の定義って知ってます?”とそのあと聞かれて、曖昧な自分に気づく。
好きなことやって人に迷惑をかけて、、が、、自分勝手、、と思っていた。
教えてくれた人は日光東照宮の三猿(見ざる聞かざる言わざる)を引き合いに出し、”この逆が自分勝手じゃない人の定義です” と教えてくれた。
「偏見なく見よ、しっかりと聴け、自らの意見をちゃんと言え」 これが自分勝手じゃない生き方。
一つでも欠けると、自分勝手な生き方をしているということ。
恐怖という入力により自分勝手な状態に陥った我々が、社会性を回復する方法はこれなんだと感じた。
なんとなくなイメージを見て、耳障りの良いこと/悪いことを拾い聞きして、(わかったような風になって)何も言わない人は、社会性を壊す側の人なのだ。
なるほど、平時ならそれでも社会はなんとか保つのかもしれない。
今は平時なのだろうか?
平和という恩恵を受けることができるのは平時だけである。
俺たちは猿か?
そしてもう一つ、末広がりの八月八日 胸に突き刺さった言葉がある 「まず男が立ち上がれ」
大きなインパクトを与えた一つの事象。
その解を得るための作業は社会科学であり、集まれば解を得ることは可能なはずだ。

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